はじめに
西区の埋め立ては、「吉田新田」のように、一人の人物が行った大事業ではありませんが、富士山の噴火をきっかけに、時代のうつりかわりを反映し、現在まで続くというドラマ性があります。また、横浜駅もランドマークタワーの場所も、もとは海の中で、日本初の鉄道は、その海の上を走った「横浜アクアライン」(子どもが命名)だったというのもロマンがある話です。
平成11年度稲荷台小学校4年2組の子どもたちは、3年生の時に、西区の立体地図をつくり、西区の地形や土地利用の不思議をしらべてきました。その立体地図をもとに、4年生では、この郷土西区の土地がどのようにしてできてきたのかをしらべ、それをビデオ作品にして残す活動を通してさらに学習を深めるという「総合的な学習」へと発展しました。作品は学校に残すとともに、西区の他の学校にも配布することをめざしていましたので、この度子どもたちとの約束にしたがって作品をお送りします。
この作品が郷土西区のなりたちを調べる学習の上で、参考資料の一つになれば幸いです。
西区はもともとどのような姿をしていたか。
江戸時代始めまでの西区は天王町のほうまで「そでがうら」という海が入り込む美しい内海でした。
東海道沿いの海岸の中でも最も美しい風景の一つとされていたようです。
天王町のあたりにあった港へと、帆掛け船が出入りする風景でした。
「新編武蔵風土紀行」にはそのような記述があります。
この時代、ランドマークタワーも、横浜駅も、平沼小学校ももちろん海だったのです。
なぜ、このような形ができたでしょう。
そでがうら」の「そで」というのは、中世の服に多かった半円形のそでの形をいうのだと考えられます。
この形がどうしてできたのか。理由はとなりの吉田新田が「釣り鐘型」をしていることと同じでです。
帷子川の水の流れがほって開いた形であることは、「流れる水」の実験でたしかめることができるでしょう。
しかし、この形ができたのは、最後の氷河期2万年前のことです。この秘密をみごとに予想した子が説明していますが、ほんとうにそのとおりです。
富士山の噴火が埋め立てのきっかけだった
1707年宝永4年。宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火を起こしました。
大量の火山灰が横浜にも襲い、平均5センチも積もったと言います。それが雨のたびに土石流となって帷子川を奈流れ下ったことでしょう。このため、袖ケ浦の海は、船が通りにくいくらいに埋め立てられてしまったのです。3年生の時から、「富士山博士」であった男児が実験を通して説明しています。実験は分かりにくいかも知れませんが、神奈川県地図を書いて、富士山から火山灰が噴出し、偏西風(ウチワ)が吹いたら火山灰がどこまで飛ぶかという実験です。2000年1月の時点では、子どもたちは火山灰を大量に吹き出すタイプの噴火にはイメージが持ちにくかったので、こんな実験までしました。2000年春から三宅島の噴火が始まったので、火山灰についてはイメージがもちやすくなったかもしれません。